日本国際法律家協会は人権,民主主義,平和,環境などを通して法律家の国際的な連帯を求める活動を行なっています。
 
 
 


■IV . 寄稿:連載(一)


5、占領と「国際的」裁判

講和によって占領下の抑圧がとれて、労働運動は上昇をたどり、教職員の勤評反対闘争などがありました。一方安保体制強化の基地拡張に反対する砂川事件とその裁判闘争がありました。これらの動きを抑えるための警察官職務執行法改正の企てに対して立ち上がった国民の統一闘争はこれを阻止しました。このような激動の中に新米弁護士として放り込まれた私は無我夢中というのが本当のところでした。この頃は弁護士の数も少なかったものですから、全国各地を東に西に飛び歩いておりました。
翌60年には安保改定問題が具体化し、これに反対する国民的大闘争には勇んで参加し、毎日のように国会の周辺に行っていました。国会構内で樺美智子さんが死亡した日には国民救援会の人たちと一緒に検視が行われていた警察病院に行き、その実相の説明を要求したといったこともありました。6月19日に新安保条約が自然承認になると、それまでの昂揚が一気に抜け去って索漠とした気分になりました。安保改定反対と併行して、日本産業のエネルギー源が国産の石炭から海外から入る石油に変わる転回点であった三池炭坑の整理解雇反対闘争がたたかわれていました。私はその頃「東北の山の夜明け」といわれた国有林労働者の雇用の近代化闘争で山まわりをしていたため、当時の労働組合運動の頂点ともいうべき三池争議には参加しませんでした。日本の労働運動は否応なしに国際情勢にかかわることになりました。国際的労働問題として、1950年6月に朝鮮戦争が始まって間もなく8月頃から行われたレッド・パージの問題があります。冷戦の中で「反共」を強めていったGHQの指令に資本家が乗っかって、多くの労働者が共産党員もしくはその強調者ということで職場から排除されました。その不当性を抗議し、解雇の理由を問い糾す労働者に対して、資本の側は具体的理由について何も答えることができませんでした。解雇された労働者は裁判所に、レッド・パージが憲法19条に定める思想の自由に反するとの理由で解雇無効の裁判を求めましたが、裁判所は占領下を理由にこれを斥けました。ポツダム宣言はその10項で思想の自由と人権の尊重の確立を約束していますから、これに反するGHQの指令は無効なはずです。しかし、占領下の裁判所は指令はどうすることもできない、というのです。
52年4月に講和条約が発効し、占領はなくなり、裁判所は憲法に従った裁判ができるようになり、またそうしなければならなかったはずです。それに着目した被解雇者たちは、その後の民主化の進展と労働組合の盛り上がりの中で、レッド・パージの不当性をあらためて裁判所に訴えようという動きが出てきました。自由法曹団では、私たち新人弁護士にそのような事件の担当を要請してきました。私は山形県酒田市に工場があった鉄興社という電気化学関連会社の事件を担当しました。訴えた原告たちは皆真面目に勤務し、非行も欠点も見当たらない人たちばかりでした。会社側の答弁書では原告たちが協調性に乏しいとか、反抗的だとか抽象的な事由をあげるだけで、解雇は結局GHQの指令だったということに帰するというものでした。要するに占領中の指令は占領解除後も有効だ、というのです。この裁判は会社側の主張に沿って原告敗訴の判決となりました。私の同僚が担当したレッド・パージ無効裁判も同じような結果になりました。
もう一つ私の国際関連事件としては65年に起こされた沖縄在住者の、本土渡航許可拒否の是正要求と原子爆弾被爆者医療法の適用を請求する事件です。当時の沖縄は、日本の他地域が講和によって占領状態がなくなったにもかかわらず、平和条約3条によって切り離され、なお米軍政下におかれ、日本国の施政権が及ばぬものとされていました。沖縄住民の原告らは、同じ日本国民でありながら何故このような差別扱いを受けなければならないのか、ポツダム宣言10項には占領軍は日本の民主化が達成されれば撤収するとの約束があり、他地域ではそれが実現されたのに、沖縄地域だけが何故に除外されたのか、米国が沖縄に対し対日講和後もなお行使している施政権とは何ものなのか、その根拠と権限範囲は国際法のどのような法源に由来し、正当づけられるのか、を裁判で問いただしたのです。この裁判も敗訴に終わりましたが、判決はその理由を納得できるかたちで少しも解明していませんでした。沖縄は日本国の領域ではありますが、憲法は全く遮断されていたわけです。
私の国際法に対する関心はこの二つの事件でひきおこされました。

6、「安保効用論」と高度経済成長

このように、講和後の日本国は独立国であって独立国でないような何とも訳のわからない状況におかれていました。安保改定反対闘争で倒れた岸内閣を引き継いだ池田勇人を首相とする内閣は、安保条約改定の強行で離れ去っていった民心をひきとめるために、ひたすら「低姿勢」に出て「寛容と忍耐」をとなえ、「10年で国民所得を2倍にする」という所得倍増計画を打ち上げました。その裏付けは「安保効用論」でした。その言い分は、日米安保条約によって日本の安全を米国の軍事力に委ねることによって非生産的な軍事支出を最小限におさえられ、ひたすら経済発展に励むことができるのだ、ということであります。
米国は64年頃からベトナム問題に深入りをし始め、65年初めには本格的な軍事行動に出てベトナム戦争の当事者となってゆきました。ベトナム人民の抵抗によって戦争は泥沼化し、米国は4万6千余名が戦死し、1450億ドルという巨額の軍事費を支出しましたが、インドシナ半島に覇権を打ち立てるというその意図は打ち砕かれました。73年初めには米全軍の撤退となり、76年にはベトナムの南北統一がなりました。
米国はこの間日本に対して一層の協力、分担を要求してきましたが、日本政府は直接的な軍事協力については憲法9条の存在を理由にして応じませんでした。そして米軍行動を後方から支えました。
軍需品の製造、供給、装備の修理等のベトナム特需によって日本経済は折からの不況を乗り越えて発展しました。一方日本国民の中からはベトナム戦争反対運動が起こり、日本政府が軍事協力に走ることを抑止してきました。こうしてみると、「安保効用論」の反面は「憲法9条効用論」ということです。
日本が軍事費支出を抑えて経済発展につとめた結果は、1960年には米ドル表示で430億ドルであった国民総生産(GNP)は、85年には13,433億ドルになりました。それと米国のGNPとの比較では、60年には米国は日本の11・7倍でしたが85年には2・9倍に縮まりました。この間は日本を「経済大国」化させた高度成長の時代です。
この時代の口火を切った池田内閣以来、82年暮れに中曽根内閣が成立するまでの間、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸と続いた内閣の政治はこのような方針にそって進められてきました。勿論それは国民が一生懸命になって働いたことの結果ではあります。
これらの内閣は吉田茂の系統を引いて米国の政策に追随はするが、その軍事的協力強化の要求に対しては憲法9条を理由にして可能な限り抑え、その力を経済建設に注いでいくという、いわゆる保守本流に属する人たちです。三木、福田の両内閣は保守本流とはそれぞれ少しづつ毛色も方向も違いますが、経済、外交政策では広義の保守本流といってもよいのではないでしょうか。ベトナム戦争、ソ連との間の核兵器と宇宙開発競争などによって起こった米国の国力の低下の中では、政策としては、米国の要求にそのまましたがい、軍備強化によって日本の国際的地位と威信を高めようという選択肢もあったわけですが、「安保効用論」によるこれら保守本流の内閣はそのような方針をとりませんでした。その意味では、それらの内閣によって憲法9条は一層傷つけられてきたとはいえ、彼らによって守られてきた、ということもできると思います。

7、中曽根内閣の登場と「戦後政治の総決算」

日本の国力が、絶対的にも相対的にも高まってきた80年代になり、それまでつづいてきた自民党の保守本流の政治の裏側にいた、「自主憲法制定論」者である中曽根康弘氏が82年11月に首相となり政治の表面におどり出てきたわけです。日本の戦後政治の転換期が迫ってきたのでしょう。
中曽根首相は、年が明けた一月に早速訪米し、その18日のレーガン大統領との会談で「日米は太平洋をはさむ運命共同体であると認識している」という表明をしました。翌18日の「ワシントン・ポスト」紙記者との会見で、ソ連機の日本侵入阻止に言及し、「日本列島を不沈航空母艦とする」と言い、またソ連軍事行動に対しては3海峡の封鎖をもって対処する、という発言をしました。このことが日本に伝えられ、国民を驚かせました。訪米から帰った直後の24日、彼は国会での初の施政方針演説で、日本は今、戦後史の大きな転換点に立っている、と述べ、戦後にできてきた制度や仕組みをタブー視することなく、根本から見直すことが必要であることを強調しました。
83年3月には日米防衛協力小委員会でシーレーン防衛の共同研究を行うことが合意されました。84年12月には首相の私的諮問機関の「平和問題研究会」が三木内閣が定めた防衛費の国民総生産額の1%という枠をはずすという報告書を提出しました。85年になると、中曽根首相はレーガン大統領とのサンフランシスコ会談で、そのSDI構想に理解を表明しました。このような中曽根政治の結論的言明が、同年7月27日の自民党の軽井沢セミナーで発言した「戦後政治の総決算」です。彼から「戦後政治の総決算」の決意をきかされ、彼の言動に不安を感じていた私たちとしてはいやが上にも警戒心を高め、これに対する備えを作り出さなければならないと決心せざるをえませんでした。
戦後政治といえばその出発点は日本国憲法の制定でした。新憲法は日本の改革の結果の確認というよりは目標の設定でした。私たちは、以来、憲法の平和主義、人権に関する諸条項を実のあるものにすることに持てる力を注ぎ込んできました。そして一定の成果を上げてきました。例えば、平和の問題では反安保改定、反核、反基地、ベトナム戦争反対などの運動であり、高度成長の過程では公害に反対し規制する法を要求してこれを実現し、また朝日訴訟などの生存権を確立しようとする運動が起きました。また革新自治体を成立させました。これは地方自治においての住民主権の確立でした。そのほか色いろな自由と人権の伸長があります。中曽根首相の発言は、これらの成果を取り崩していくのだ、ということを意味しています。
「戦後政治の総決算」には、過去の日本を裁き、軍国主義の清算をはかった東京裁判に対する批判と、その成果の打ち消しも含まれています。日本政府は、平和条約11条で東京裁判を受諾していましたが、中曽根首相をはじめ保守の中の「タカ」派は、この裁判の事実の認識とこれを裁いた法理を「東京裁判史観」といって攻撃をしてきていました。東京裁判は、日本が中国侵略を始め太平洋戦争に拡大していった過程、その中での政府、軍部の動き、戦地・占領下での日本軍の暴虐行為など、日本国民がそれまで知らされていなかったことを白日の下にさらけ出し、またそれらの行為が国際法に違反し、許されないものであったことを国民に認識させ、今後の日本がとるべき行動の指針を示すものでありました。「タカ」派の「東京裁判史観」批判は、その対立物である「大東亜戦争史観」の復活強化であります。

8、ドイツと日本の復興と国際秩序への参入

軍国主義の日本とナチズムのドイツとは第2次世界大戦で同盟国として戦って共に敗北しました。
日本は事実上米国の単独占領でしたが、ドイツは東西に分割され、その東側はソ連、その西側は米英仏三国の占領下におかれました。西ドイツは、占領中の1949年5月に「ドイツ連邦共和国基本法」を制定しましたが、憲法は東西ドイツの統一後に予定されていました。
1954年10月のロンドン9ヵ国会議の結果55年5月5日に西ドイツは主権を回復しました。この決定には、(1)西ドイツの防衛計画は北大西洋軍(NATO)の勧告に従う、(2)NATO軍司令官は平時には西独軍の視察権を持ち、戦時には西独軍の全作戦遂行権を持つ、という再軍備とNATO加盟の裏付けがなされていました。それは対日講和と日米安保条約の関係と同じです。
西ドイツは日本に数年先んじて奇跡の高度成長を遂げていました。西ドイツ成立以来の首相のアデナウアーが63年に引退し、同じキリスト教民主同盟のエアハルトが跡を継ぎましたが、69年には社会民主党のブラントが首相となり、「東方政策」を進めて、ドイツの平和と安定に努めました。70年にはソ連との間にモスクワ条約を締結し、ヨーロッパの戦後現存の国境の確認とその不可侵、武力の行使と威嚇の放棄を約束しました。70年12月にはポーランドとの国交正常化条約に署名のためワルシャワを訪れたブラント首相は、ドイツ軍によって壊滅させられたユダヤ人の住居地域であった旧ゲットーの記念碑の前に跪きました。チェコとも同様の条約が結ばれました。72年12月に東西両ドイツの間で関係正常化条約が調印され、翌73年9月には2つのドイツの国連への同時加盟が実現しました。
これらの経緯は、日本が56年に日ソ共同宣言で国交を正常化して同年12月に国連加盟が実現し、71年7月のニクソン大統領の訪中後72年9月に日中共同声明により国交が回復したことと比較されます。ヨーロッパでは75年夏のヘルシンキ宣言で人権と自由を尊重する新しい欧州の共存体制がうたわれましたが、日中国交回復には米中の対ソ政策が影を落としていました。79年12月にはソ連のアフガニスタン侵攻があり、新冷戦といわれる状態となり、欧州全域に中距離核ミサイル配備の問題が起こりドイツでその反対大運動が起こったことは既に記したとおりです。日本では82年6月の国連軍縮特別総会に向けて8千万に及ぶ反核・軍縮要求署名が集まりました。
第2次世界大戦で同じく糺弾され敗戦国となった日本とドイツは、このようにしてその後の冷戦の中で共に西側に組み込まれて復興していき、1985年には「大国化」していました。この二つの国が違うところは、日本は専ら米国に追随することにつとめ近隣の国々から孤立化していましたが、西ドイツの平和と繁栄は「宿敵」であったフランスをはじめ周囲の国々と結ばれた欧州共同体(EC)などの友好と信頼の関係に支えられていたことでした。


<INTERJURIST158号目次へ>


(C)1999-2007 by JALISA. All rights reserved.