日本国際法律家協会は人権,民主主義,平和,環境などを通して法律家の国際的な連帯を求める活動を行なっています。
 
 
 


追 悼 :

中田直人さんを偲んで

青山学院大学教授、協会会長 新倉 修

協会創立50周年記念会
での 故中田直人先生

 協会の理事で、日本民主法律家協会理事長の中田直人さんが2月3日亡くなった。享年78歳。早すぎるお別れだった。水戸で行われた告別式は、うららかな春の陽に包まれ、300人が参列した。弔辞を読まれた茨城県弁護士会会長・谷萩陽一氏は、奇しくも、中田さんが所属された水戸翔(みとはばたき)合同法律事務所の所長であり、「司法修習生のときに旬報法律事務所でお世話になりました」と挨拶された。特筆すべきには、「ただの会」という名称の団体からたくさん若い人たちが弔問にかけつけ、代表が心のこもった弔辞を捧げた。この団体は、茨城大学と関東学院大学で教鞭を執ったときのゼミ卒業生たちと中田さんがつくったもので、さまざまな機会に集まり、議論し、飲みかつ食べて、懇親を深めるという趣旨の会だそうだ。今年1月の誕生日会にも集まり、ホテルでの一次会に参加できなかった中田さんの病室に、50人もの「会員」が大きなバースデーケーキをもっておしかけたそうだ。中田さんは号泣されたという。この会の名称の由来も、ゼミ学生の一人が飲み会の後で、「(中田先生はたいへん偉い人だと聞いていたが、飲み会での態度は、なんのことはねぇ)ただの人じゃねぇか」と言ったことを中田さんがえらく気に入って、ただの人が集い、力を集めることによって、何事も成し遂げられるという教訓に引きつけて、ゼミOB会の名称に定めたそうだ。ここにも、中田さんの人柄とこだわりがきらりと光っている。
  中田さんは、石川県の松任市というところで生まれ、金沢大学の法文学部を卒業されて、司法試験に合格され、その後、上京して、東大の大学院法学研究科に進まれ、團藤重光教授の研究室に入られた。秀才の令名は高い。告別式に来られた金沢大学の同窓会役員の方が配布してくださった「同窓会50年記念号」にご本人が寄稿されているが、それによれば、大宅壮一が「駅弁大学」と称した新設国立大学であった金沢大学では、第一期生で総代だった。とはいえ、黎明期の地方大学では専任教官がそろわず、多くの講義は、旧七帝国大学に在職する高名な教授が集中講義や非常勤で担当するものだった。中味は教科書のリピートなどで精彩を欠くせいもあって、中田さんは、日がな一日、マージャンに熱中したそうだ。「メモ魔」と自称するほどだから、マージャンの戦績も克明なメモに記されているはずだ。几帳面な反面、洒脱であった不思議な人柄がうかがえる。
  最初にお目にかかったのは、私が早稲田大学の大学院法学研究科の学生で、民主主義科学者協会法律部会の企画による「民科学校」という学生・市民向けの連続講演会だった。中田さんが講師に招かれ、私はチューターとしてコメントしたり、支援学生グループの予習を助けたりする役割を担当した。題目は、当時きわめてホットな刑法全面改正問題だった。中田さんが講師に指名されたのは、おそらく自由法曹団の担当者として、舌鋒鋭く反対の論陣をはっていたからだろう。私の記憶に残っているのは、反対運動に成算があるのかというような質問が会場の学生からあったのに対して、中田さんが破顔一笑して、「レーニンによれば」と切り出して、「理論は灰色だが、実践はグリーンだ。人民の意思は物質的な力ではないが、それが結集すれば物理的な力となって革命を引き起こすことができる」と断言した。う〜ん、これこそ「革命的楽天主義」!多数派革命とか、議会を包囲する人民の大群とか、理論と実践の結合などの決まり文句ではなく、レーニンの引用に、中田流のエレガンスが漂っている、というのは穿ちすぎではあるまい。
  その後、國學院大学に就職した私は、一橋大学におられた村井敏邦教授のお誘いで、國學院大学の澤登俊雄教授の仲介を得て、東京刑事法研究会という研究会に参加することになった。法政大学の吉川経夫教授や神奈川県立栄養短期大学の関力教授、中央大学の櫻木澄和教授、愛知大学の木田純一教授とともに、東京合同法律事務所におられた中田直人弁護士とも、同じ研究会という栄誉を浴した。松川事件や布川事件を通して、中田弁護士の活躍を見聞することが増えたが、不幸なことに、狭山事件の主任弁護人を辞任されるという事態もあった。そのいきさつは知るよしもないけれど、多忙な日程をやりくりされて研究会に参加された中田さんが進んでこの問題について触れることはほとんどなかった。しかし誰かが状況説明を求めると、実に淡々と、客観的な事実経過の説明に終始された。ここには、科学者としての厳密さに通じるような、客観的事実への信頼と個人的な評価に対する謙抑とが相半ばしていることが見て取れる。
  その後、しばらく研究会でもお目にかかる機会が減ったが、日本共産党中央本部の役職に就いて多忙といううわさを聞いた。たぶん、その仕事も一段落した後だったと思うが、国際民主法律家協会(IADL)からロシア革命記念シンポジウム「現代世界における個人と法〜十月社会主義革命と法の発展」(1987年12月7日〜10日、レニングラード)の案内が来た。中田さんがそれに日本国際法律家協会の代表として参加して発言することになった。私は、事務局のお手伝いで、精しい事情は皆目見当がつかないけれど、中田さんの希望は強く、準備も入念だった。発言原稿の一字一句についてまで協会理事会の承認を求めるというような勢いだった。事務局長の仲田晋さんが「直ちゃん、細かいことはいいから、元気で行ってくださいよ」と緊張を解くように言葉をかけていた。ここに、律儀な性格がよくあらわれている。というよりも、ロシア革命の祝典に日本の法律家団体の代表として参加することは、歴史的にもきわめて重い意味をもっていたからかも知れない。
  思い出は尽きない。2007年に北海道大学で日本刑法学会の学術大会があった折、孝子夫人と同伴して参加され、「新婚旅行です。少しゆっくり北海道を見せてあげます」と、例の人なつこい笑いをされて、「学会はエスケープしますよ」と、笑顔のまま、付け加えられた。告別式の時に、孝子夫人にそのことをおたずねしたら、札幌の周辺を少し見ただけでしたと、少し寂しげだった。また、お嬢様からは、「青山学院大学で布川事件のシンポジウムをしたときに、義父に同行しました」と挨拶されて、かえって恐縮したけれど、「この子は中田の跡をついて回るのが好きなのね」と孝子夫人から笑顔が漏れた。


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